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未経験からいきなりフリーランスとして独立した無謀な男の15年

こんにちは、イチです。

僕は15年のキャリアを持つWEBデザイナーですが、その内訳は3年フリーランス、12年制作会社というものです。

「購入者限定LINE」を読んでくださってたらご存知かと思いますが、もし知らない場合は、この記事を一度読んでいただけると嬉しいです。

普通のキャリア形成では、制作会社に勤めた後、フリーランスとして独立したと思われるのですが、僕のキャリアは実は逆で、まず最初にフリーランスとして独立しました 笑

我ながらすごい勇気と行動力だったと思います。

自分のイラストサイトでWEBデザイナーデビュー

僕が初めてホームページを作ったのは1999年、自分のイラストサイトを作りたかったのが始まりです。

僕は趣味の一つにイラストを描くことがあり、自分の絵をとにかく人に見てもらいたくて、当時40万くらいしたPCを買い、「初めてのホームページ」みたいな書籍を見ながら、HTMLタグをメモ帳に書いてイラストサイトを立ち上げました。

で、イラストサイトを運営していくうちに、他のサイトの管理人との交流が楽しくなり、日本全国に実際に会いに行きました。

で、イラストサイトがそれなりに軌道に乗り、絵描き仲間とオフ会とかして楽しく飲み歩いていたのが20代前半。

初めての仕事としてのサイト制作

新卒で最初に就職したのは専門学校をやってる学校法人だったのですが、そこで学園のホームページを作ることになり、「誰か作れる人はいないか」という話になったときに、僕は軽率に「はいはーい!作れます!!」と言いました。

で、その時のグループには7校ほどがあり、その7校のホームページを新人事務員の僕が作らせていただいたのが最初のWEBデザインの仕事でした。

そのサイトはそれなりに良い評価を受け、そこで味をしめた僕は、「これ、独立して仕事できるんじゃね?」と思い、まあ他にも色々あって、その学校を3年で辞めました。

それと同時に関東の実家を出て、今の嫁が住んでいる四国に引っ越しました。
で、その後1年ほどIT資材系卸の会社員を経て独立資金を貯め、いざフリーとして独立したのです。

その時26歳位? 趣味のイラストサイト以外、WEB制作の経験はほとんどなく、職場のサイトを作ったってだけ。


あまりに無謀でした。

フリーのWEBデザイナーとして独立

僕は実はかなりの酒豪で、しかも日本酒飲みだったので、日本全国のオン友を頼りに地方の地酒を飲みにいく一人ツアーをやっていました。行く先々で居酒屋でオン友とサシ飲みをしてました。

四国の嫁と知り合ったのも、嫁は酒を飲まない人だったのですが、僕のイラストサイトのお客さんで、四国に行ったことがないので遊びに行く!ってことで仲良くなりました。

そんなんで四国に引っ越した後、社会経験4年程度、しかもWEB制作会社にもいたことがないような26歳の若造が、いきなりフリーでWEB制作を始めたわけです。

で、最初はどうしたかというと、趣味でやっていたサイトの人脈をあたりました。

とりあえずWEB制作をし始めたので、何か仕事をくださいとメールをしまくり。

あと、名刺を作って、広島や大阪の起業系セミナーに行きまくりました。自分も起業したわけですから、起業系のセミナーで勉強しながら、そこで知り合った人たちに営業をかけるという、一石二鳥戦略です。

ただの起業セミナーだけでなく、副業系アフィリエイトセミナーにも行きました。

退路を断って本気で仕事を探せば、割と仕事は取れるものです。
名刺を配って興味を持ってくれた人に、自分が作ったサイトを見せていきました。そして10人に見せて2人取れるくらいのCVRでした。CVRなんて言葉も知りませんでしたが、今考えると恐るべき成約率です。

僕がずっと「営業は対面が最強」と言っている根拠はここにあります。

対面営業の強さ

対面営業は、すぐにお互いにその人が信頼に足る人物なのかが分かります。僕は若造でしたが真面目だったので、結構年配の方にも気に入ってもらいました。

最初はとにかく件数を取ろうと、値段は安く数を取っていきました。
趣味でサイトを作っていた経験から、ドメインやサーバなど、一通りサイトのオープンまでどうするかはわかっていたので、それを使ってバンバンサイトを作っていきました。
そうしているうちに自動車整備系の学校のサイトの更新の仕事とかメルマガなどの継続案件ももらえました。

ただ、順風満帆だったわけではなく、仕事が長期間途切れることも当然ありました。

そこで僕が始めたのがアフィリエイトです。

最初の2ヶ月は、がむしゃらに営業したおかげでなんだかんだ色々案件をもらえて、20万から30万くらいは稼げていたのですが、未経験の人間が最初からWEB制作だけで食えるほど甘くありません。

ついに案件が途切れることも出てきました。

定期的な収入は、継続的にもらっていたメルマガと自動車学校の更新と、地方の病院のサイトの仕事くらい。全部合わせても5万円くらいでしょうか。思いつくところは全部営業しきってしまっています。

これはヤバい…

で、僕はどうしたかというと、副業で検索しまくり、とりあえずすぐに始められそうなせどりとアフィリエイトを始めました。

食いつなぐための副業

せどりは10万だけ予算を作り、試しに始める。
WEB制作の営業は続けながら、案件がないときは自分のアフィリエイトサイトを作る。

あの当時は携帯(ガラケーです)アフィリエイトが熱く、PCではPPCアフィリエイトが主流でした。
PPCは広告費がかかるようなので、とにかく簡単そうな携帯アフィリを始めることに。

そして僕は、とある携帯アフィリの高額塾に入るのです。

とにかくフリーになったからにはなんとか自分自身の力で稼ぎたいので、WEB制作の傍らせどりと携帯アフィリを始めてみました。その頃は軍資金も残り100万を切ってたし、結構焦ってました。

(ちなみに僕は学生時代は実家にいてバイトもしており、学校務めのときも金をあまり使わなかったので200万以上の貯金があった)

今でこそ飽和してますが、当時はせどりをやってる人は少なく、3ヶ月位で軌道に乗り10万くらいは稼げるようになりました。月商40万くらいで、利益10万くらいです。

ただ、仕入れて売るのせどりでは資産形成が全くできず、これは儲からないと思い、徐々にアフィリエイトの方にシフトしました。

WEB制作も少しずつは5万程度の案件が取れてましたので、全部合わせて20万ちょっとという、生活するのにギリギリな金額をなんとか稼げてるような状況。

どこかに突破口を作らないと、と思いリサーチを続けていたとき、とある携帯アフィリの高額塾を見つけました。
30万くらいするけど、本気でやれば3ヶ月で月10くらいは稼げるらしい。

携帯アフィリエイトの高額塾

携帯アフィリの高額塾、貯金が100万を切っている状況で30万払うのはあまりにもリスキーだけど、今ならまだ払える。このままいけば半年後はもう払えなくなってるかも。


入るなら今しかない。

携帯だけど、サイトを作るのは今までと変わらない。
その上SEOも学べ、PCにも応用ができる。


とにかく「サイトでものを売る方法がわかる」のがでかい。

当時結婚したばかりの妻にも相談し、僕はその高額塾にかけることにしました。

で、高額塾に入った後に待ち受けていたのは、とにかくサイト量産の鬼作業。

今なら考えられないと思いますが、僕はこの塾で数千という数の携帯サイトを作ったのです。

数千サイトなんてありえないと思うでしょうが、この頃はGoogleがまだ賢くなく、キーワードだけ変えたコピーサイトが普通に上位に出ていました。

コピーサイトであっても、稼げそうな広告を選び、商品のターゲットを考え、キーワード選定を行い導線を作る。


つまり「顧客心理を想像し、顧客視点で物を売る」という、マーケティングの基礎はここで学びました。

本業WEB制作/副業アフィリエイト

そこからは、WEB制作の案件が無いときは携帯アフィリの塾のカリキュラムをこなし、案件が入ったらWEB制作を優先しで、ずっとサイトを作り続けるルーティンになってきました。

当時、アフィリエイト高額塾は詐欺も多かったようなのですが、幸い僕が入った塾は非常に質が高く、1ヶ月位で初成果が出て、更に3ヶ月後くらいには1つの広告が当たり8万程度の収益が発生しました。
(収益発生から着金までは2ヶ月ほどかかったのがネックでしたが)

で、アフィリの塾のフォーラムで知り合った副業/専業アフィリエイターとも積極的に交流し、広告情報の交換やWEB制作の営業をしていきました。懇親会にも出て、当時mixi(Twitterの前に日本で流行っていたSNS)がまだ流行っていたため、そこで四国コミュニティを作り、四国でのオフ会なども開きました。

今振り返ると、僕が稼げた大きな要素として、「とにかく交流を行った」という点が挙げられると思います。
一人で作業をせず、積極的に仲間を作り、オフでもオンでも意識的に他人と多く関わっていました。

年収1200万の世界

僕はその後、半年程度で携帯アフィリで凄まじく稼げる広告を一つ発見し、その広告を扱った月は38万、70万と収益が伸び、ついに月に120万円稼げるまでになりました。

当然楽に稼げたわけではなく、作っても作っても収益にならない広告やサイトは、成果を出したサイトの数百倍ありました。つまり、何千サイトも作った中のたった3,4サイトが、その金額を稼いだのです。

いわば「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」の類であり、この成果は僕の実力ではないと実感していました。
だから僕は、この収益は今だけのボーナスタイムだと捉え、同じように稼げて豪勢な生活になっていく周囲の人を尻目に、生活水準を一切上げませんでした。

しかし、その後も数ヶ月100万超えを維持し、その年はWEB制作と合わせて年収1200万円程度を稼ぎ出してしまったのです。

大きな成果を出したことで、幸運にも塾の運営者のひとりに認知されました。
その人はUさんといい、当時の業界で知らない人はいない有名人でした。
この出会いが、その後の僕の運命を大きく変えていったのです。

成功者からのスカウト

アフィリエイト塾運営者のUさんは、当時からWEB制作会社を持っていました。
僕は当然そのUさんにも「本業はWEBデザイナーなので、何か案件があったら下さい」と常々営業していました。
そのUさんは、その塾のアフィリエイトカリキュラムを執筆していたコンテンツホルダーでもあったため、運営者の中で最も僕が尊敬している人でした。

僕がアフィリエイト広告が当たって、大きな成果を出せたことを個人的にメールで報告したら、Uさんから返信がありました。

「イチさん、WEBデザインもできるんですよね?よかったらうちの会社のサイトを作ってもらえませんか?」

思い返せば、これがUさんからの最初の依頼でした。

僕は速攻「ぜひやらせてほしい」とお礼のメールをして、10万円でその会社のサイトを制作しました。

それが評価されてか、後日「愛媛からのリモートでいいから、うちのWEB制作会社のスタッフになってくれませんか?」という、めちゃくちゃおいしいお誘いをいただきました。

ここから、僕のWEB制作会社のキャリアが始まったのです。

制作会社の正社員として再出発

Uさんの仕事は最初は業務委託でしたが、どんどんもらう仕事が増えてきたのと、ディレクション的な仕事も任され始めたので、固定給の正社員として雇ってもらうことになりました。

僕もその頃は子供もできて、このままずっと不安定なフリーランスとして働き続けるより、多少自由は減っても、組織に属した方がいいなと思うようになっていました。

月に100万以上稼げていたアフィリエイト報酬も、思った通りGoogleの度重なるアップデートにより徐々に減っていき、正社員として採用してもらった1年後には月に10万から20万程度まで落ち込んでいきました。

アフィリであたっても生活レベルをあげなくて本当に良かったと胸をなでおろしていました 笑

もうひとつ手痛い勉強となったのが、税金です。
1200万円を稼ぎ出した翌年、僕は所得税にまず目が飛び出るほどの請求をくらい(今考えると経費計上ができてなかったので当然なのですが)、更に翌年の市県民税も80万くらい取られました。
貯金してたので払えましたが、調子に乗って豪遊してたら破産でしたね。

僕はそんなこんなで、UさんのWEB制作会社で12年、愛媛から東京の会社のリモート社員として勤めました。
コロナが始まるずっと前からだったので、かなり時代の先駆けだったと思います。

自宅からリモート社員なんて羨ましい、と羨ましがられるのですが、実態はそんなにいいものではなく 笑

リモートとはいえ、10時-19時はデスクに拘束され、常に連絡を取れる状態になってる必要がありました。さらに時間外労働がめちゃくちゃ多く、自宅にいるので24時間、365日働き続けるような状態でした。
休日出勤、徹夜で納期に間に合わせるとか日常。深夜3時とかに社長とMTGしたりすることも日常茶飯事
東京の社員も10名程度でしたが泊りがけとか多かったし、まあいわゆるブラック制作会社でしたね 笑

ここからもまだまだ続きがあり、社長=Uさんがめちゃくちゃ天才肌であることや、僕らができない仕事を取ってきて「勉強せざるをえない状況」を作り出し、結果的に僕のスキルがメキメキ増えていったことなどに繋がります。


僕は一時その会社の取締役にもなり、年収も再び1000万を超えました。今度は実力でね。

その後、コロナによる取引先連鎖倒産という未曾有の危機に直面し、この会社を支えきれなくなってしまうわけですが…

続きはまたの機会に。

イチ 拝

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